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タイヤ空気圧

 いい加減乗り倒して溝が少なくなってきていたため、ディーラーに点検のたびにタイヤ交換を勧められていたがだましだまし乗っていたのを、ついに車検が近づいてきて年貢の納め時と観念し、新しいタイヤに交換した。残りの溝は2mmくらいだったろうか。
 2代目プリウスの標準タイヤはMichelin Pilot Primacyの195/55R16 86Vというものだったのだが、これはとっくの昔に履き潰し、以降何度かさまざまな低燃費タイヤに交換してきた。今回交換したのはMichelinのENERGY SAVER+ 195/55R16 87Vというもの。低燃費タイヤはものによってはすごい勢いで溝が減ってしまうのだが、Michelinのタイヤは持ちがいいようで、それをタイヤ選びの決め手にした。
 そこで気になったのが、タイヤの種類を変えたときに、空気圧は運転席の脇に書いてある標準空気圧(前230kPa、後220kPa)のままで大丈夫なのかということだ。今まではまったく気にしたことがなく、当然そう書いてあるんだからそのままで大丈夫でしょくらいにしか思っていなかったのだが、たまたま気になりだして調べてみると、ロードインデックスの数値が変わったら適正空気圧も変わるらしい。さらに調べたところ、BridgestoneのWebサイト上に適正空気圧を計算してくれるページが見つかった。これによると、86から87に変わった場合、10kPaくらい高めに入れるのが正しいらしい。
 ところが話はこれだけでは終わらないようであった。

『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)

 WOWOWにて鑑賞。

  • 昨年ネットでかなり話題になっていた作品だが、それでハードルを上げ過ぎたか、観てみるとこんなもんかという感じ。よく出来たアクション映画だとは思うが、それ以上のものがあるかはよくわからない。やはり映画館で観ないとダメだったか。
  • シナリオだが、実質的な主人公はフュリオサであって、形式的な主人公マックスはそれを補助する立場である。語り手とみるのも少し無理があるし、なんだかマックスが付け足しみたいな話である。マッドマックスシリーズを謳う作品でなかったらこんな人物は不要と判断されただろう。
  • これほどまでに極端なフェミニズム的ストーリーにしたのは、アクション映画にも女性客を呼び込もうという戦略なのだろうか。

70点/100点満点

『セッション』(2014)

 WOWOWにて鑑賞。

  • 名ドラムス奏者になることを夢見て、ジャズの名門シェイファー音楽大学に入学したニーマン。彼は入学早々、大学の最上級クラスにあたる「スタジオバンド」を指揮するフレッチャー教授の目に留まり、同バンドのドラムスの副演奏者を任される。だがフレッチャー教授の指導法はスパルタ式の非常に厳しいものだった。そのうえ、主演奏者の座を巡って奏者の間でも競争を強いられる。ニーマンは文字通り血の滲むような練習をこなしてようやく主演奏者の座を確保する。だがそのお披露目の演奏会に運悪く遅刻したことで、奏者から外されてしまった彼は、それに激怒してフレッチャーに殴り掛かかり、退学になってしまう。ニーマンの父はそれに憤慨し、フレッチャー教授の行き過ぎた指導を密告して彼を退職に追い込むのだった。しばらく音楽から遠ざかった生活をしていたニーマンだが、偶然通りかかったジャズバーでフレッチャーに出会う。フレッチャー曰く、誰かに密告されて大学を辞めさせられたが、あの指導は名演奏者を生み出すためにしたことで間違ったことをしたとは思っていないという。その別れ際、フレッチャーは今率いているバンドの次のライブで、スタジオバンドでニーマンと練習していた曲をやるので、ドラムスを担当してくれないかとニーマンを誘い、ニーマンはそれに応じる。このライブはJVC音楽祭といい、多数のスカウトもやってきていて、いい演奏をすればプロとして契約できるチャンスもあるが、逆にひどい演奏をすれば悪名が知れ渡り一生プロにはなれなくなるかも知れない。意気込むニーマンだったが、当日いざステージが始まってみると、曲目は事前に云われていたのと異なり、演奏したことすらないものだった。フレッチャーは、ニーマンが密告したことはわかっていると云い、どうやらニーマンに致命的な失敗をさせるつもりらしい。
     果たして、ニーマンの運命は? そして、フレッチャーは名教師なのか、それともただのサイコパスなのか?
  • 冒頭10分だったか、公式サイトで出だしだけ動画で公開されていて、それを観て以来、映画館で観なきゃなと思っていながら上映期間が過ぎてしまっていた作品。WOWOWで放送されるのをずいぶん待っていたが、やっと放送された。でも実際観て見ると、やっぱりこれは映画館で見たかったと思う。
  • 基本的には音楽映画みたいなものだけど、鑑賞してみるとシナリオも意外にしっかりしているのに驚いた。上のあらすじだとあまりうまく表現できなかったが、「フレッチャーの指導は褒めるに値するか、それとも逆に非難に値するか」(別の云い方をすれば、「フレッチャーは名教師なのか、それともただのいやな奴か」)というのがきちんと葛藤になっていて、焦点がそこからあまり外れずに話が進行し、そしてそれに答えが出た瞬間に話が終わる。綺麗なストラクチャになっていて感心した。アカデミー賞は助演男優賞、録音賞、編集賞の3つを取ったそうだが、脚本賞も取ってよかったのではないかと思う(実際には、規定上脚色賞のほうになるらしく、実際そちらにノミネートはされた。この年の脚本賞は『バードマン』、脚色賞は『イミテーション・ゲーム』が取ったとのこと。筆者は『イミテーション・ゲーム』はまだ見ていないが、『バードマン』よりはこちらがいい)。

85点/100点満点

『Her Story』

 SteamにてPC版を購入。日本語化パッチを利用してプレイ。

  • 90年代に起こったある殺人事件についての警察での取り調べ映像が格納された検索システムを模した作品。このシステムでは、一つ一つが十数秒から1分程度にバラバラにカットされた取り調べ映像を、その発言中の単語で検索できるようになっており、検索した単語ごとに映像を上位5件まで閲覧できる。これを使って、なるべく多くの映像を閲覧して事件の真相を把握するのが目標らしい。
  • ストーリー性の面で昨年のPCゲームの中で比較的高い評価を得ていた作品ということで購入したのだが、わかりにくいわ面倒だわつまらないわで完全に失敗。システムが不親切すぎるし、何が起こったのか最後までプレイしてもさっぱりわからない。仮に理解できたとしても(ネットで検索すれば真相は出てくる)、出来事そのものがすでに完全に終わってしまったことなので、話に全くサスペンスがない。久々に金返せと云いたくなる作品だった。話をバラバラにしただけで面白い作品になるなら苦労はない。ストーリーやゲーム性というものをあまりに軽く見た作品である。

『僕だけがいない街』(第1~4話)(TVアニメ)

 ニコニコ生放送(タイムシフト)にて鑑賞。

  • 主人公の藤沼悟は、アルバイトをしながらマンガ家を目指す冴えない29才の青年だが、一つだけ特殊能力を持っていた。それは「リバイバル」というタイムリープ能力で、周囲の人間に何か悪いことが起こると、勝手に数分程度時間が戻るというものだった。藤沼はそれを利用して何度も人助けをしてきたが、自分にとってはどちらかといえば損になることの方が多かった。そんなある日、ひょんなことから故郷の北海道から出てきて藤沼のアパートに住み込んでいた彼の母佐知子が、何者かに刺殺されるという事件が起こる。するとリバイバル能力が発動し、気づくと藤沼は小学生時代に戻っていた。時は昭和63年2月、所は北海道。藤沼は戸惑いながらも小学5年生としての生活を始める。ところで記憶によると、この年の3月にはこの地区で誘拐事件が発生し、同級生の雛月加代と杉田広美が誘拐後殺害されるのであった。加代は藤沼がひそかに思いを寄せていた女子で、事件後、彼女を救うことができなかったことを藤沼は深く後悔した。またその犯人として以前より小学生の藤沼の遊び相手をしてくれていた近所の青年「ユウキさん」が逮捕され、後に彼は死刑判決を受けることになるのだが、藤沼には彼が真犯人とは思えなかった。それを思い出した藤沼は、誘拐事件の発生を防ぐため、親から虐待を受けていた加代を救うことで彼女と親しくなり、事件の発生日には彼女を誘拐場所である近所の公園から遠ざけておくようにすることに成功する。
     気になるのは、リバイバルでこの時代に飛ばされたところからすると、誘拐事件と母の殺害に何か関係があるのかということである。果たして、ここからどうにかして佐知子の殺害を防ぐことはできるのか。そして差し当たり、藤沼は加代の誘拐を防ぐことができるのか。
  • 『ヤングエース』連載中のマンガが原作のノイタミナ枠アニメ。普段TVアニメは見ないのだが、『時をかける少女』の助監督の伊藤智彦氏が監督、同作「公式ブログの中の人」が原作協力(って何?)で、また世評も上々とのことで、珍しく鑑賞してみた次第。そして話のジャンルはまたもタイムリープものである。演出はやはり細田守の影響が強い。ノイタミナ枠だし、原作は青年誌のマンガだから、話も演出も、一応大人の鑑賞に堪えるものにはなっていると思う。
  • この話についてロマン(娯楽)要素の面からいうと、青年誌のマンガということもあって、この4話までの範囲で云えば、「小学生時代に戻って初恋のあの子とやり直したい」という願望を実現する、というような話になっている。なんとなくギャルゲーっぽい展開ではあるのだが、加代が親から虐待を受けていたことを奇貨として(?)、加代の信頼を得ていく過程が丁寧に描かれていて、その点はそれなりによく出来ていると思う。
  • ただ、概して話がダレがちである。これはサスペンスの作り方がいまいちだからで、その原因はほぼ犯人側の情報を伏せすぎているということに尽きる。サスペンスでは、犯人の身元を伏せるにしても、語り手ないしその仲間が狙われていて喫緊の脅威(パトス)の下にあるということは早い段階で明確に示さねばならぬ。そしてその後の主人公の行為は、何をするにしても、この脅威を防ぐことに関連していなければならない。ここから話が外れたとたんに観客は退屈を始める。
  • また、主人公の動機が強い倫理的信念に基づいていないのも気になる。どちらかといえば主人公が事件を防ごうとしているのは母親や恋人への愛情からだが、それは自分の都合に属する動機である。それでも殺人という非道な行為を防ぐのは矯正的正義にかなうといいたいところだが、そういえるのはその具体的ケースにおける殺人が正しくない行為であった場合に限る。前述したこととも関係するけれども、犯人の動機が明らかでないので、今回の殺人が正しくないのかどうかは現時点でなんとも言えないのである。一般論として、ここまでの展開における主人公のように、単に社会規範に忠実だというのは、社会に対するローヤリティの問題であって、その行為は立派というよりなんだか小市民的に見えるのである。信念に従って行動してはじめてその行為は倫理的に立派な行為となる。
     こういう状態で主人公の行為が成功した場合、観客は、脅威が取り除かれてほっとするには違いないが、主人公の行為をほめたたえようという気にはあまりならないのである。すべてのドラマのテーマは、究極的には誰のどの行為を褒め、誰のどの行為を弾劾するかなのであって、これが明らかにならないと、いつまでたっても話が終わらない。
     『時をかける少女』の成功の一因は、それが恋愛そのものというより、恋愛における倫理をテーマとしたからである。

推理・探偵小説の視点の問題

 ここ最近いくつか推理小説・探偵小説を読んでみたが、一つ云えそうなことは、この種の小説では、視点を加害者、被害者、偽の容疑者のいずれかに置くべきであって、探偵小説だからと云って探偵に視点を置いてしまうと駄作化するということである。どうしても探偵の立場で語りたいならば、探偵が前三者のいずれかと一体となって行動するようにしなければならない。これに反する話は、探偵が事件後に話を聞いてまわるだけになりがちであり、そのようなものはドラマ性が薄くてつまらない。サスペンスが弱くなる。特に長篇だとダレてしまう。
 被害者に視点を置くときは、事件前から話を始めることになる。死んでしまっていては視点が置けない。連続殺人のようにすでに誰か他人が殺されていたり、あるいはすでに一度以上本人が殺されそうになっていたりすることもあるが、それでも視点の置かれている被害者はまだ死んではいない。

 この基準でいくと、モルグ街の殺人などは失格になる。ただ短篇なら話がダレる前に終るので読めないこともない。横溝正史で云うと、八つ墓村は可だが獄門島は不可である。シャーロック・ホームズなどは、一見ホームズによる事後の推理が中心になっていそうでいて、実は依頼に来た被害者の話が事件前から始まっていて、実質的に被害者視点である話が多い。クリスティでは『そして誰もいなくなった』は可で『オリエント急行殺人事件』は不可である。竜騎士07作品では、『ひぐらし』は可で『うみねこ』はどちらかといえば不可(バトラやアンジュは最後まで死んでないし前半の事件で狙われてすらいないから直接の被害者とは言い難い)。

『アメリカン・スナイパー』(2014)

 WOWOWにて鑑賞。

  • 米海軍特殊部隊のメンバーとしてイラク戦争に従軍した狙撃手クリス・カイルの自伝の映画化。クリント・イーストウッド監督。
  • いかんせん実話なのであまりテーマが明快でないし、話が冗長。ドラマチックなプロットがあるでもない。劇映画のシナリオとして見たらあまりよくできていると云えないが、まあ、あくまで伝記映画ですからね。
  • 戦闘シーンはよく出来ているとは思うが、今時のハリウッド映画としては平均的なところかも。
  • クリス・カイルはもちろん狙撃で敵をどんどん倒していくのだけど、それは国に忠実な兵士として米国を守るためであって、倫理的信念に基づいての行動というわけではないので、その行動に普遍的な倫理的価値はない。作中にも偽善という言葉が出てきていたが、ローヤリティとモラリティはまったく別のものである。米国人の目から見たら国を守ってくれる英雄なのかもしれないが、あいにく筆者は米国人ではないので、カイルのしたことに立派だという感慨を感じることはない。といって特別悪人と思うわけでもなく、要するに印象が薄い。これは純然たる米国内向け作品ではないか。

60点/100点満点

類別トリック集成

 推理小説界で有名なトリック分類、江戸川乱歩の『類別トリック集成』を入力して公開しました。江戸川乱歩の作品は今年から著作権が失効しています。素人が読むとネタバレのオンパレードになってしまうからか、青空文庫では入力予定になっていません。
 昭和28年に書かれたものなので、今となっては古典的作品のトリックのみですが、そこが却ってわかりやすいのではないでしょうか。それに、読んでいると、現代の作品でも思い当たるものが多数あります。この前プレイした『逆転裁判』にもここに書いてあるそのままの筋がありました。江戸川乱歩自身、何々という海外の作品をもとにして私のこれこれの作品を書いたと記しており、ネットではよくパクリパクリと騒がれますが、作品はゼロから作るものでなく、過去の成果を踏まえて作るものなのだということがよくわかります。

『砂の器』(1961・松本清張著)

  • 蒲田駅近くの操車場で、顔を潰された身元不明の死体が見つかった。この被害者が最後に目撃されたのは蒲田駅近くのバーで、東北訛りで若い男と話をしていたという。話を漏れ聞いたバーの店員らによると、二人の間には「カメダ」なるものについての話が出ていたらしい。警察は蒲田付近の聞き込みを開始するが何も情報は得られない。そんな折、偶然秋田に亀田なる土地があることに気づいた小西刑事は、一縷の望みをかけて同地に出張する。現地の警察署長に話を聞くと、最近よそ者が亀田に来て周辺を一日うろついたあと青森方面に去ったことがあったという。それが蒲田のバーで被害者と一緒にいた男かどうかはわからない。あまり収穫もなく小西は帰京するが、その際亀田の駅でたまたま当節世間の注目を集めている芸術家集団「ヌーボー・グループ」の一団に出くわす。彼らはこの近くにある大学のロケット実験場の視察に行った帰りだという。
     果たしてカメダとは何か。被害者は何者か。そしてバーで話していた若い男は犯人なのか。
  • 松本清張のこれもまた有名な一作。前のエントリで書いた欠点もそのまま。とにかく捜査が偶然、というより作者に都合のいい気まぐれに頼り過ぎである。上に示した冒頭部分のあらすじの範囲で言っても、たかが亀田という地名が一致したくらいで、特に確かめたいことがあるでもないのに、現地の警察署に電話すれば済むようなことを聞くだけのために、わざわざ何日もかけて夜行列車に乗ってまでで現地に行く必要はないはずだし、現地をたまたま見慣れぬ若者が散歩していたくらいでいちいち不審に思うのもおかしい。この手のご都合主義が延々続く。

『ゼロの焦点』(1959・松本清張著)

  • 板根禎子はある広告代理店の金沢支社に勤める鵜原憲一と見合い結婚する。憲一は東京の本社への転勤が決まっていたため、二人は新居を東京に定めた。新婚旅行から帰った後、憲一は最後の引き継ぎのために金沢支社に出張し、禎子は東京の新居でそれを見送るが、その後憲一は、帰京予定日の前日に金沢支社の後任者となる本多良雄に目撃されたのを最後に、行方が知れなくなる。禎子は会社からその知らせを受けて金沢へ発ち、本多と共に周辺を捜索するが見つからない。そうこうするうち、憲一の兄宗太郎も金沢へやってきて憲一を探す。宗太郎は禎子と別行動で探していたが、何か心当たりがあるように禎子には思えた。禎子は宗太郎を残して東京に戻り、憲一が昔勤めていたという立川警察署に行く。そこでかつての上司から、憲一が立川基地前にたむろする米兵相手の売春婦の取締りを担当していたことを知る。そうこうするうち、宗太郎が金沢で毒殺されたという知らせが入り、禎子は金沢へ舞い戻る。現地の警察の話では、毒入りウイスキーを飲まされたのが死因で、宗太郎にそれを渡したのは売春婦のような派手な身なりの女だったらしいという。
     果たして宗太郎は誰に、どうして殺されたのか? そして憲一は新婚早々どこへ行ってしまったのか?
  • 度々映画化もされた松本清張の代表作の一つ。松本清張はあまり読んだことがなかったので、試みに読んでみた次第だが、思ったより出来が悪いというのが正直な印象。語り手たる禎子の行動の動機があまり説得的でなく、作者の都合で動かされている感があるうえ、つまるところ話を聞いて回る以上のことをしておらず、一方で本質的な意味での主人公たる憲一も行方不明で物語の表に出てこないので、一言で言ってドラマ性が低い。物語やドラマはつまるところ語り手が主人公のしたことをほめるかけなすかが目的なのだが、この話はどちらにもなってない。
  • また話の中で出てくる謎が弱い、つまり謎の不可能性が低い。謎というのは、複数の事実の帰結がぶつかってありえなくなるような形式をもっている必要があるが、この作品ではあまりそういう風になっていない。例えば憲一が新婚早々どこへ行ってしまったのかという謎は、新婚早々夫が妻をほったらかすはずがないということと、しかし実際憲一は新婚早々妻をほったらかしたという事実とがぶつかっているがゆえに生じる謎ではあるが、厳密にいえば、新婚早々相手に愛想をつかすカップルもいないことはないし、憲一が(推理小説のパターン通りに)誰かに殺されていると仮定すればほったらかしているわけではなくなるわけで、いずれもそれなりにありうることになり、ぶつかりがなくなってしまう。ぶつかりがなくなるような解釈を容易に思いつけるようなものは、謎として弱く、読者を引き付ける力が弱いのである。推理小説なのだから、密室殺人のような、どうにも解けそうにない強い謎があるべきだろう。
  • これら二つと関連することだが、推理小説で定番の、登場人物たちが謎への答えに対する(性格に基づいた)仮説に基づいて行動するという構造が欠けている。例えば、禎子は女性としての魅力に自信がないので、新婚早々憲一は愛想を尽かしてどこかの女性の家にでも転がり込んだのではないかと疑って、憲一の立ちまわりそうな売春宿を探し回るとか、そういう風になっていれば行動にも説得力が出たはずだが、実際の作品ではそうなってなくて、なんだか漫然と作者の都合であちこち立ちまわって話を聞くばかりになっている。
  • 松本清張は社会派ミステリーということだったが、話の真相にだけ社会性があって、表の筋、つまり禎子の行動にはほとんど社会性が出てこない。社会性が感じられるのは真相が明かされた後の結末周辺のわずかな部分だけである。