カテゴリー別アーカイブ: 作劇

推理・探偵小説の視点の問題

 ここ最近いくつか推理小説・探偵小説を読んでみたが、一つ云えそうなことは、この種の小説では、視点を加害者、被害者、偽の容疑者のいずれかに置くべきであって、探偵小説だからと云って探偵に視点を置いてしまうと駄作化するということである。どうしても探偵の立場で語りたいならば、探偵が前三者のいずれかと一体となって行動するようにしなければならない。これに反する話は、探偵が事件後に話を聞いてまわるだけになりがちであり、そのようなものはドラマ性が薄くてつまらない。サスペンスが弱くなる。特に長篇だとダレてしまう。
 被害者に視点を置くときは、事件前から話を始めることになる。死んでしまっていては視点が置けない。連続殺人のようにすでに誰か他人が殺されていたり、あるいはすでに一度以上本人が殺されそうになっていたりすることもあるが、それでも視点の置かれている被害者はまだ死んではいない。

 この基準でいくと、モルグ街の殺人などは失格になる。ただ短篇なら話がダレる前に終るので読めないこともない。横溝正史で云うと、八つ墓村は可だが獄門島は不可である。シャーロック・ホームズなどは、一見ホームズによる事後の推理が中心になっていそうでいて、実は依頼に来た被害者の話が事件前から始まっていて、実質的に被害者視点である話が多い。クリスティでは『そして誰もいなくなった』は可で『オリエント急行殺人事件』は不可である。竜騎士07作品では、『ひぐらし』は可で『うみねこ』はどちらかといえば不可(バトラやアンジュは最後まで死んでないし前半の事件で狙われてすらいないから直接の被害者とは言い難い)。

類別トリック集成

 推理小説界で有名なトリック分類、江戸川乱歩の『類別トリック集成』を入力して公開しました。江戸川乱歩の作品は今年から著作権が失効しています。素人が読むとネタバレのオンパレードになってしまうからか、青空文庫では入力予定になっていません。
 昭和28年に書かれたものなので、今となっては古典的作品のトリックのみですが、そこが却ってわかりやすいのではないでしょうか。それに、読んでいると、現代の作品でも思い当たるものが多数あります。この前プレイした『逆転裁判』にもここに書いてあるそのままの筋がありました。江戸川乱歩自身、何々という海外の作品をもとにして私のこれこれの作品を書いたと記しており、ネットではよくパクリパクリと騒がれますが、作品はゼロから作るものでなく、過去の成果を踏まえて作るものなのだということがよくわかります。

ひぐらし再訪(3) 劇中世界における幻想的設定の実在性

 『ひぐらし』第一話のお疲れさま会で、祟りによるものとしか思えない事件が過去にいくつも起こっていたにも関わらず、ほとんどの読者(テストプレイヤー)が劇中世界における祟りの実在を信じていなかったと報告されていたが、これはもっと祟りの実在を支持する読者が多いことを予想していた作者の竜騎士07氏にとっては深刻な問題であったはずである。一体どうしてこう解釈されたのだろうか。なお、もちろんこの問題は地の文で祟りの実在が直接描写されていないことが前提の話である。
 祟りは現実世界に実在しないからというのではもちろん答えとして十分ではない、だって劇中世界はフィクションなのだから祟りが実在したっていいはずではないか。氏はその後この点についての結論として、『うみねこ』の中で「登場人物の中に一人でも疑っている人間がいる限り、その物語世界内に幻想的な事実が実在するとは解釈されない」という説を(登場人物たちの口を通して)披露した。この説は『うみねこ』シリーズのプロットの中心的構成原理として使われている。だがこの説は本当だろうか。怪談ものなどで、幽霊の存在を信じない「愚かな人間」が不審な死を遂げるといった話はいかにもありそうではないか。疑っている人間がいるだけでは幻想的設定が否定されることにはならないのではないか。
 これはやはり、祟りが実在したという結論になったとしたときに読者がそれに納得できるか、そういう状態にあるかどうかが大事なのではないか。第一話の場合、すべてを祟りで説明しようとしても説明しきれないところが残ってしまう。例えば鬼隠しについての詳しい説明はこの時点では出てきていないから、失踪が説明できない。富竹が殺されたとき人間に囲まれていたという件もそうだ。また、二人が圭一を襲ったときの手段が注射器であったというのも祟りよりも科学的な手段を暗示する。
 「登場人物の中に一人でも疑っている人間がいる限り、その物語世界内に幻想的な事実が実在するとは解釈されない」というのは、幻想的実在を肯定しようとすると無理が生じる状況では、その結果として登場人物の方にも納得できない人間が出てくるということに過ぎないのではないか。

ひぐらし再訪【ネタバレ】

 ここのところ『ひぐらしのなく頃に』を復習している。

 振り返ってみると、シリーズ前半の出題編3話で起こった事件は、大半が本筋である鷹野の陰謀とほとんど無関係であった。鬼隠し編で圭一が魅音とレナを殺してしまうこと、綿流し編で魅音が佐都子や梨花や詩音を殺してしまうこと、祟殺し編で圭一が鉄平を殺してしまうことは、いずれも鷹野らが計画したことではなく、また鷹野らの陰謀がなければ起こらなかったとも必ずしも言い難いものであり(過去4年間綿流しの日にストレスから雛見沢症候群の重症者が発生して殺人を犯したり自殺すること自体は鷹野らにかかわらず自然に起こっていた、また祭具殿への侵入は鷹野の個人的興味により陰謀がなくても行われ得る、との解釈を前提とした場合。ただ5年目の殺人と失踪だけは鷹野の陰謀と若干の因果関係を認めざるを得ない)、鷹野からみて偶然に近い。これらは精々、雛見沢症候群という共通の原因を持っているという程度の関係にしかない。
 共通の原因をもっている以上不自然な偶然とは扱わないというのがドラマの世界のお約束である。ミステリーはこのルールに大きく依存している。だからこれらの後に鷹野の陰謀が出てくることは一応不自然ではないものと扱うことになる。連続失踪の方は鷹野の陰謀の結果でもあったし。しかし描写されるものという観点から見た場合、シリーズ前半で描写されるのは主に雛見沢症候群の危険性であって、鷹野の陰謀の危険性ではないということになる。これは本筋から外れているのではないか。読者をミスリードするという方向に偏り過ぎているようにも思われる。推理小説はこういうものなのだろうか。
 実は、鷹野の陰謀という要素は比較的後になってから追加されたのではないかとする説がある。もしシリーズから鷹野の陰謀という要素を除去し、入江あたりが雛見沢症候群が真の問題だと突き止めてめでたしめでたしで終わるような話にシリーズを書き換えたとすると、上で述べたような問題は大幅に軽減される。ひょっとすると、元々の構想はそのようなものだったのかも知れない。

 またダム建設計画が雛見沢に持ち上がったことは読者や圭一をミスリードする上で重要な役割を果たしたが、これは雛見沢症候群とは共通する原因すらない純然たる偶然である。ドラマにおいて純然たる偶然を完全に排除することはできないが、偶然が増えれば増えるほど実現確率が下がり、描写の強さが弱まる。鬼隠し話で言えば、雛見沢症候群が危険だといっても、圭一の殺人はダム建設計画という偶然がなければ起こらなかったということになるから、雛見沢症候群が危険だという描写を弱める方向に働く。もっとも、偶然だったということは最後まで読まないとわからないから、読んでいる途中にはあまりそう感じさせない構成ではあるが。

 ドラマの主題とは結局その中で起こる出来事の共通原因のことなのだろうか。そうであるような気がしたこともあるし、そうでないような気がしたこともある。
 とにかくこの主題というのは作劇における呪いのような概念である。

水曜どうでしょう アフリカ篇 

 MXTVでの全編の放映が終了。
 既に各所で指摘が出ていたところだけれど、やはり今回の出来はどうでしょうの企画の中では下の方だったかな。

 有能なガイドに任せすぎて旅に目的と苦労と失敗がなかった。つまり劇作風に言えば葛藤がなかった。
 また映像面では、どうでしょうの特長である前方の車窓の風景をバックにしたトークが少なかった。

『アルゴ』追記

 以前のレビューに次の通り追加。

  • この話の要点となる重大な決断(プロット・ポイント)としては
    1. 襲撃の際、大使館員たちは大使館に留まることもできたがそこから逃げ出したこと
    2. トニーが大使館員たちを軍による救出作戦に任せるのでなく飛行機に乗せようとしたこと

    の2つが考えられる。ところで、およそドラマの観客の関心は、登場人物が実際に選んだ方の選択が選ばなかった方と比べてより正しかったかどうかに集中し、その点をはっきりさせたうえでなければ物語は終われないはずである。しかるにこの作品ではそこが不明確なままであった、つまり、軍に任せたら殺されていたのかどうかを明確に示す必要があったはずだが、そこがあまりはっきりしないままであった。
     筆者は歴史に疎いが、ネットで調べてみると、実際の歴史では、その後行われた軍の救出作戦は失敗したものの、事件の発端となった亡命した国王が死去したことで、結局人質は全員解放されたとのことである。ということは、結果的に、無理をして大使館から逃げ出すことも、飛行機に乗せることも必要なかったわけだ。これがこの物語の結末が曖昧にならざるを得なかった原因なのだろうが、そういうことであれば、むしろ実話としてではなく、オリジナルのフィクションとして制作されるべきだったろう。あるいは、むしろ徹底してコメディとして作るべきだったかもしれない。

『アルゴ』(2012)

 WOWOWにて再見。封切時のレビューはこちら

  • 『アメリカン・ジゴロ』の後に見たせいもあるが、見直してみるとやはり脚本技術の未熟さが目立つ。前に指摘した点もそうだが、一番まずいのはセリフで説明ばかりしていて描写がない点。
  • それともう一つ大事なのは、こういう話は助けてもらった側の視点で描くべきだということ。

(11/9に追記)

『たったひとつの冴えたやりかた』【ネタバレ】

 マンガじゃなくて古典SF小説。旧訳版にて。

  • 泣ける結末を持つ小説として有名らしい。
  • 簡単にあらすじを紹介すると、行方不明者を追って宇宙船で冒険に出かけた少女が、その途中、たまたま拾った病原体のようなエイリアンに「感染」し、脳に取りつかれる。少女とエイリアンは束の間友人になるのだが、結局はエイリアンには取りついた者の脳を食い尽くしてしまう習性があるうえ、強い感染性もあることがわかり、そのエイリアンともども太陽に突入して自殺するという話である。
  • ということで、おそらく自殺するというところが泣き所なのだろうが、残念ながら筆者にはちっとも悲しく感じられなかった。おそらくこれは、主人公の行動の動機に説得力が乏しく共感できにくかったことと、エイリアンのことを友人のようには思えなかったことが原因である。
  • そもそもおよそ物語においては、誰でも人が死ねば即ち悲しいというものではない。そうなるためには死んだり別れたりする者のことを観客が愛していることが必要である。而して観客が愛する者は、観客を愛する者である。といっても、物語には観客自身は登場できないから、実際には、観客と理念を共有し一体感を持って観客に代わって物語中で行動する者(通常は視点人物)を愛する者を愛することになるのである。この視点人物を愛する者のことは主人公という。この話でいうと、作者の意図としては、視点人物が少女、主人公がエイリアン、ということになるはずだったのだろう。
  • だがこのエイリアン、口先では少女を大事にするようなことをさかんに言うのだが、実際にしている行動を見ると、ちっとも友人のようでないのだ。特に脳を食べてしまうのはその最たるもので、自身が説明するところによると、このエイリアンの種族の年長者たちであるところの「師匠」に指導されれば食べないでも済む(しかし今ここに師匠はいないので食べざるを得ない)ということらしいのだが、師匠に言われれば食べないなら友人のためにも食べないべきだろう。
  • また泣ける原因として、感動の涙というものもあり得る。この場合、少女の自己犠牲により人類が感染を免れたということが感動のポイントになるということなのだろう。しかしこの話だと、感染してしまった以上どちらにせよ少女は死ぬので、立派な行為には違いないが自己犠牲というべきか微妙なところではないか。