カテゴリー別アーカイブ: ひぐらしのなく頃に

白川郷巡礼

 『ひぐらしのなく頃に』に出てくる雛見沢村のモデルで、背景映像の一部も撮影された白川郷に行ってきた。
 前々から行ってみたいと思ってはいたのだが、なにぶん東京からだいぶ離れているので躊躇していた。しかし実際行ってみると想像したほどには遠くなかった。自動車で直行すれば片道5時間くらい。近くはないけど1泊すれば余裕、頑張れば日帰りもできなくはない距離である。松本と高山を結ぶ国道158号が長野オリンピックがらみでよく整備されたのが大きい。また2002年には白川郷に東海北陸道の白川郷ICが開通し、高山からのアクセスも便利になっている。本編で何度か圭一の両親が車で長時間かけて東京に行っていたが、その頃と比べたらかなり所要時間が短縮されているはずである。
IMG_20160701_092124
 いまや白川郷は泣く子も黙る世界遺産指定地。正真正銘の観光地である(世界遺産が本当は観光地を指定する制度ではないのはわかっているが、事実上そうなっているわけである)。バッチリ整備された有料駐車場に次々押し寄せる観光バスから吐き出される観光客らが辺りを歩き回り、白川郷の中は平日にも関わらず人通りが多かった。雛見沢の寒村のイメージとはほど遠い。外国人観光客も多く(中国系が多いが欧米系もちらほら見かけた)、白川症候群なんてものがあったらあっという間に世界中に感染が広まるに違いない。
 現地でひぐらしファンと思しき人間を見かけることはなかったが、オヤシロさまこと古手神社のモデルとなった白川八幡神社はこの通り。
IMG_20160701_095242
 初リリースから10年経つのに大した盛り上がりであるが、先ごろ原作者同伴で巡礼ツアーがあったとの話も聞くので、その関係もあったのかも知れない。
 ただ絵が描いてあるのが全部ひぐらし関係といっていいのかどうかはよくわからないところがある。まあ素人が描いた絵だから必ずしもうまく描けているとは限らないからということもあるが、ひぐらしシリーズは原作の竜騎士07の絵が個性的すぎることもあって、アニメ版やマンガ版、コンシューマゲーム版やSteam版などバージョンごとにキャラクターの絵がバラバラであり、原作をプレイしただけではどのキャラクターなのか判別しがたい顔もあるのである。
IMG_20160701_083701
 現地でほかに意外だったのはこの圭一の家のモデル。実際には家ではなく白川村の下水処理施設である。屋根が切妻風になっているものの実態はRC造りの公共建築で、いくら新築で大きめの家が白川に乏しいとはいえ、これを圭一の家にするというのは、現地を見たあとだとかなりの力技に感じる。本当にここに住んでいたら確かに御殿と呼ばれても仕方ない。

 今回本格的にスマホのF-02Gで撮影してみたが、ポケットに入れておくといつの間にかレンズが汚れ、ソフトフォーカスがかかったようになってしまうのには閉口した。上2枚も若干その傾向があるが、これでもましな方である。

2018.08追記:
 その後白川郷を再訪。再度撮影してきた写真がこれ。

 作品のタイトルスクリーンをよく見たらこの位置の方がオリジナルに近い。この記事の最初に掲げたほうの写真を撮った天守閣展望台は位置も高いし土産物屋などもあり、白川郷の展望台としてメジャーかと思うのだが、今回のこの写真はそこから少し下ったところにある荻町城跡展望台の、それも少し奥まったところにある展望ポイントから撮影したものである。10年以上経つというのに、画面上に見えているマツの様子があまり変わらないのが嬉しいところ。
 聖地巡礼の際は、天守閣展望台だけでなく荻町城跡展望台を訪れるのを忘れないようにしたい。

ひぐらし再訪(3) 劇中世界における幻想的設定の実在性

 『ひぐらし』第一話のお疲れさま会で、祟りによるものとしか思えない事件が過去にいくつも起こっていたにも関わらず、ほとんどの読者(テストプレイヤー)が劇中世界における祟りの実在を信じていなかったと報告されていたが、これはもっと祟りの実在を支持する読者が多いことを予想していた作者の竜騎士07氏にとっては深刻な問題であったはずである。一体どうしてこう解釈されたのだろうか。なお、もちろんこの問題は地の文で祟りの実在が直接描写されていないことが前提の話である。
 祟りは現実世界に実在しないからというのではもちろん答えとして十分ではない、だって劇中世界はフィクションなのだから祟りが実在したっていいはずではないか。氏はその後この点についての結論として、『うみねこ』の中で「登場人物の中に一人でも疑っている人間がいる限り、その物語世界内に幻想的な事実が実在するとは解釈されない」という説を(登場人物たちの口を通して)披露した。この説は『うみねこ』シリーズのプロットの中心的構成原理として使われている。だがこの説は本当だろうか。怪談ものなどで、幽霊の存在を信じない「愚かな人間」が不審な死を遂げるといった話はいかにもありそうではないか。疑っている人間がいるだけでは幻想的設定が否定されることにはならないのではないか。
 これはやはり、祟りが実在したという結論になったとしたときに読者がそれに納得できるか、そういう状態にあるかどうかが大事なのではないか。第一話の場合、すべてを祟りで説明しようとしても説明しきれないところが残ってしまう。例えば鬼隠しについての詳しい説明はこの時点では出てきていないから、失踪が説明できない。富竹が殺されたとき人間に囲まれていたという件もそうだ。また、二人が圭一を襲ったときの手段が注射器であったというのも祟りよりも科学的な手段を暗示する。
 「登場人物の中に一人でも疑っている人間がいる限り、その物語世界内に幻想的な事実が実在するとは解釈されない」というのは、幻想的実在を肯定しようとすると無理が生じる状況では、その結果として登場人物の方にも納得できない人間が出てくるということに過ぎないのではないか。

『ひぐらしのなく頃に』再訪(2) 真相の設定まとめ【ネタバレ】

 シリーズ最大の謎であるオヤシロさまの呪いの真相を簡単にまとめると次のようになる。完全なるネタバレなので、未プレイの方は決して読まないことをお勧めする。

(雛見沢症候群)
 雛見沢には古来より雛見沢症候群と呼ばれる感染性の土着病があり、雛見沢の住人はほぼ全員がこれに感染している。しかしこの病気の病原体の検出には技術的に難しい面があり、当の住民自身を含め、この病気の存在は一般に知られていなかった。この病気は、感染してもはじめ症状がないが、患者が強いストレス(特に疑心暗鬼)にさらされると劇症化し、猜疑心が強まったり幻覚を見たり攻撃性が強まったりといった精神病の症状を生じて、周囲の人間に危害を与えたり自殺したりといった事態に至ることもある。
 鷹野はその軍事利用をもくろむ秘密組織に属し、入江はその下で当地において表向き診療所を開設してそこで秘密裏に雛見沢症候群を研究している精神外科の研究者である。また、富竹はそれを支援する自衛隊の連絡将校である。

(一年目の事件)
 昭和50年ごろ、雛見沢にダムの建設計画が持ち上がり、雛見沢全体がダムの底に沈むことが見込まれたため、地元住民の間で激しい反対運動が起こった。数年に及ぶ戦いの末、秘密組織からの政治的圧力などもあって結局建設計画は撤回されたが、その反対運動の末期の昭和54年に、雛見沢に設置されていたダム建設準備事務所の所員が、雛見沢症候群に感染したうえ、激しい反対運動にさらされたストレスで劇症化し、所長を殴り殺すという事件が発生する。この所員は、事件直後に鷹野とその部下らによって秘密裏に診療所に連れ去られて研究材料とされたため、部外者からは失踪したように見えた。この事件の真相は、雛見沢症候群の存在自体が世に知られていない以上、もちろん警察にも地元住民にもわからなかったが、たまたま事件が地元の守り神とされている「オヤシロさま」の綿流しの祭りの晩に起こったため、迷信深い地元民の一部は、古来より雛見沢に伝わる伝承の教える「オヤシロさまの祟り」と「鬼隠し」によるものではないかと噂した。

(二年目の事件)
 ダムの建設推進派だったために村内で肩身の狭かった北条一家は、綿流しの祭の日に村にいることを避け家族旅行に出かけるが、もともと雛見沢症候群の症状の重かった佐都子が、そこで両親を崖から突き落としてしまう。このときの父親は義父で、佐都子との関係がうまくいっていなかったことがこの「事故」の背景にあった。
 入江の尽力により、佐都子については、拉致されて研究材料とされること、また自傷行為に及ぶほどに発狂することからは免れた。この前から、入江は、特に重要な感染者と考えられていた梨花を対象とした研究を開始しており、その成果としてできた治療薬が佐都子の致命的な悪化を防いだ面がある。
 両親がいなくなった結果、佐都子と悟史は叔母夫婦に預けられることになった。

(三年目の事件)
 症候群の研究に梨花を協力させることに反対し始めた母親が邪魔になったため、鷹野指揮下の特殊部隊が両親まとめて毒殺したというもの。ずいぶんと単純な真相であり、症候群の劇症化が原因でないという点で異例である。この年以降、事件が綿流しの日に起こる理由は、オヤシロ様の祟りの伝承を利用した隠蔽を目的としたものとなっていく。つまり、1年目と2年目の事件が綿流しの日に起こったのはほぼ偶然で、それ以降は人為的なものである。
 雛見沢症候群の研究を進めるための研究材料として、より多くの劇症感染者を必要としていた鷹野は、この頃から、一部の住民の噂を利用し、綿流しの晩にオヤシロさまの祟りがあると言いふらして住民にストレスを与え劇症化させることを画策していたのではないかと思われる。

(四年目の事件)
 佐都子と悟史は引き取られた叔母夫婦とうまくいかず、二人の症状は次第に悪化する。劇症化した悟史は、叔母を殺したうえ、綿流しの晩の噂を利用してそれを隠蔽しようとするが、かねてより悟史を診察していた入江と鷹野らに結局連れ去られて失踪する。悟史は劇症化したとは言うものの、事件の隠蔽を考える程度には正気を保っており、いくらか症状が軽かったようである。とはいえ、佐都子に効いた治療薬も悟史には効かず、これ以降診療所で昏睡のまま秘密の長期入院を余儀なくされる。

(五年目の事件)
 以上の設定を前提として本編で語られる五年目の事件が起こっている。五年目の事件には、過去4年続いた雛見沢症候群患者による事件と、それとは別の、発狂した鷹野による滅菌作戦の二つの筋がある。
 前者の内容はループによって内容が違うが、とにかくこの年も例年通り雛見沢症候群の劇症発症者が出て身近な人間を殺してしまうという内容である。トリッキーなことに、この年だけはこの種の事件が綿流しの晩から基本的に数日遅れて起こっている。この年、可能性としては雛見沢を一時離れた引け目を感じていたレナが綿流しの晩に発症することもあり得たが、魅音ら仲間たちの尽力でストレスが軽減され発症を免れたということだと思われる。圭一や詩音、また罪滅し編のレナの発症は、発症までの経緯が違うので、綿流しの日ピッタリにはならなかったわけである(これらの発症には、大石が現われて園崎家陰謀説を吹き込むことが関連している)。一方、皆殺し編における圭一による殺人は、祟りとの混同による隠蔽を図ったので、4年目と同様に綿流しの晩になった。なおこの年は、すでに研究が概ね完成したことと、滅菌作戦の実行との兼ね合いからか、劇症化した患者が鷹野らに連れ去られない場合もあるようである。
 その代わりに綿流しの晩に起こったのが、鷹野と富竹の仲間割れから生じた富竹殺害事件である。この年、雛見沢症候群の研究が打ち切られることになり、鷹野は半ば発狂した。そのために鷹野は政府に「滅菌作戦」を実行させようと考えるようになった。滅菌作戦とは、雛見沢症候群の「女王感染者」である梨花が死亡することがあると、雛見沢の住人たちがそれをきっかけに一斉に劇症化して暴れまわり、日本社会を大混乱に追い込む可能性が高いという説に基づいて、それを防ぐために雛見沢の住人を全員毒ガスで殺害するという作戦である。この年の綿流しの日の数週間後、鷹野は梨花を殺害することにより、自衛隊にこの実行を強いるつもりで計画を進めており、いくつかのループではそれが成功して実際に実行された。ただし、この鷹野の女王感染者説は結果的には誤りで、それが露見したループでは実行されないこともあった。
 ともあれ、滅菌作戦の実行に反対していた富竹はこの晩、鷹野に雛見沢症候群の病原体を注射され、精神に異常をきたして自殺に追い込まれた。綿流しの晩に実行されたのは祟りの噂を利用した隠蔽のためである。鬼隠しの伝承と帳尻を合わせるため、この事件のあと鷹野は身を隠した。

 本来綿流しの晩に起こるべき事件を五年目にかぎって数日遅らせ、その代わりに綿流しの晩に無関係な事件を突っ込むというミスリードは、やりすぎといえばやりすぎだが、周到な構成である。このミスリードのせいで、読者はまるで倒叙もののように4年間続いた事件の5年目そのものを目撃しているにも関わらず、そのことに気づかない。何か別の事件が起こっているように見える。さらに言うなら、第一話である鬼隠し編の展開はあまりに自然すぎて、圭一が劇症化していなくても発生し得る内容であったことも紛らわしかった。
 また、通常の推理小説ではトリックスター的役割を担う刑事役たる大石が、本作ではかなりの賢さを見せているため、レッドヘリングに過ぎない園崎陰謀説にかなりの説得力が出た。
 それはともかく、本編の後半は、この5年目の事件と滅菌作戦をいかに防ぐかをめぐって展開する。

2018.8追記: この記事は比較的来訪者が多いので、このブログのひぐらしネタをカテゴリにまとめました。聖地巡礼などもあります。古い記事では現在の私の立場と違う記述もあります。

2018.9蛇足:

  1. 上の説明では滅菌作戦が実行されなかったのがどの話なのか特定しませんでしたが、綿流し編とその裏返しの目明し編で実行されなかったことは特に問題ありません。問題は鬼隠し編で、鬼隠し編の結末では、梨花が死んだり、滅菌作戦が実行されたりという描写がなく、圭一の事件の捜査が通常通り進められたような表現になっていました。しかし、のちに皆殺し編の中でやっぱりこのときも梨花が死んでいて滅菌作戦も実行されたようにストーリーが修正されました。このことは、他の記事でも少し触れたように、鬼隠し編執筆時点では滅菌作戦の構想がなかったということの傍証と考えることもできます。しかしその場合、富竹はなぜ死んだのかが宙に浮いてしまいます。滅菌作戦とは全然別の理由で鷹野と対立して殺されたと考えることもできますが、元の話と離れすぎるので、あくまで私見ですが、滅菌作戦の構想そのものはあったが、当初の設定では、鷹野が女王感染者だと思いこんでいたのは梨花でなく魅音だったと考えてみてはどうでしょうか。
  2. 梨花がネコ言葉で話すのは、雛見沢症候群のモデルがネコのフンから感染するトキソプラズマで、梨花こそが雛見沢ウイルスの根源的な感染源だからと考えられます。ただし、鷹野の言う女王感染者であるかは別の問題です。
  3. 鬼隠し編で圭一が発症したのは、女王感染者から離れて東京の葬儀に出席したからだという説もありますが、私は上述のように女王感染者説は誤りという立場で、圭一の発症はあくまで大石との接触によるものと説明しています。この「上京原因説」は皆殺し編で梨花が説明している説なので、軽視はできないのですが、しかしこれは女王感染者説を信じている入江から聞いた話をもとにした梨花の考えに過ぎないので必ずしも信頼できず、またこう解さないと、滅菌作戦が実行されないことがある点の説明がつかなくなります。鬼隠し編冒頭なども確かに思わせぶりなのですが、これは作者のブラフと解釈することになります。
  4. 鬼隠し編で大石との接触後に圭一が仮病で入江診療所に行った際、入江から劇症化のための注射か何かをされたのかどうかというのも興味深い論点ですが、そもそも研究の中止が既に決まり滅菌作戦直前の時期である上に、入江自身は鷹野ほど危険思想の持ち主というわけでもないので、単なる感染者ならほかにいくらでもいる中でここで敢えて劇症化患者を作り出す動機がなさそうですし、以上を前提とする限り、大石に会ったあとなので既に劇症化しているわけですから、ここでそれを入江に悟られたために終盤で入江らがやって来る原因となっただけで、劇症化そのものの原因となるような何かをされたわけではないものと思われます。
  5. 以前はここで、2年目以降の事件は、鷹野が流したオヤシロ様の祟りの噂のために出た劇症化患者によるものとする解釈で説明していたこともありますが、祭囃し編の内容を前提とするとやはり無理があるため、今の説明に書き替えました。作者の意図としては、むしろそのような役はオヤシロ様の使いこと大石に担わせるということだろうと思われますので、上の説明もその立場に沿ってしてあります。
    しかし個人的には、未だに、祭囃し編で作者が示した真相よりも、以前の解釈に立つ真相の方がこのシリーズらしいと思っています。特殊部隊を滅菌作戦以外に持ち出すのはあまり都合がよすぎる感がありますし、園崎陰謀説ないし村ぐるみ説は確かに大石が吹き込むのですが、より重要なオヤシロ様の祟りは鷹野が吹き込んでいるのに、後者が無視されてしまうのも違和感があります。

ひぐらし再訪【ネタバレ】

 ここのところ『ひぐらしのなく頃に』を復習している。

 振り返ってみると、シリーズ前半の出題編3話で起こった事件は、大半が本筋である鷹野の陰謀とほとんど無関係であった。鬼隠し編で圭一が魅音とレナを殺してしまうこと、綿流し編で魅音が佐都子や梨花や詩音を殺してしまうこと、祟殺し編で圭一が鉄平を殺してしまうことは、いずれも鷹野らが計画したことではなく、また鷹野らの陰謀がなければ起こらなかったとも必ずしも言い難いものであり(過去4年間綿流しの日にストレスから雛見沢症候群の重症者が発生して殺人を犯したり自殺すること自体は鷹野らにかかわらず自然に起こっていた、また祭具殿への侵入は鷹野の個人的興味により陰謀がなくても行われ得る、との解釈を前提とした場合。ただ5年目の殺人と失踪だけは鷹野の陰謀と若干の因果関係を認めざるを得ない)、鷹野からみて偶然に近い。これらは精々、雛見沢症候群という共通の原因を持っているという程度の関係にしかない。
 共通の原因をもっている以上不自然な偶然とは扱わないというのがドラマの世界のお約束である。ミステリーはこのルールに大きく依存している。だからこれらの後に鷹野の陰謀が出てくることは一応不自然ではないものと扱うことになる。連続失踪の方は鷹野の陰謀の結果でもあったし。しかし描写されるものという観点から見た場合、シリーズ前半で描写されるのは主に雛見沢症候群の危険性であって、鷹野の陰謀の危険性ではないということになる。これは本筋から外れているのではないか。読者をミスリードするという方向に偏り過ぎているようにも思われる。推理小説はこういうものなのだろうか。
 実は、鷹野の陰謀という要素は比較的後になってから追加されたのではないかとする説がある。もしシリーズから鷹野の陰謀という要素を除去し、入江あたりが雛見沢症候群が真の問題だと突き止めてめでたしめでたしで終わるような話にシリーズを書き換えたとすると、上で述べたような問題は大幅に軽減される。ひょっとすると、元々の構想はそのようなものだったのかも知れない。

 またダム建設計画が雛見沢に持ち上がったことは読者や圭一をミスリードする上で重要な役割を果たしたが、これは雛見沢症候群とは共通する原因すらない純然たる偶然である。ドラマにおいて純然たる偶然を完全に排除することはできないが、偶然が増えれば増えるほど実現確率が下がり、描写の強さが弱まる。鬼隠し話で言えば、雛見沢症候群が危険だといっても、圭一の殺人はダム建設計画という偶然がなければ起こらなかったということになるから、雛見沢症候群が危険だという描写を弱める方向に働く。もっとも、偶然だったということは最後まで読まないとわからないから、読んでいる途中にはあまりそう感じさせない構成ではあるが。

 ドラマの主題とは結局その中で起こる出来事の共通原因のことなのだろうか。そうであるような気がしたこともあるし、そうでないような気がしたこともある。
 とにかくこの主題というのは作劇における呪いのような概念である。

『ひぐらしのなく頃に』のページ数

 『ひぐらしのなく頃に』は、プレイしているときからずいぶん長い話だなあと思っていたが、小説などと違ってページ数という概念がない(正確に言えば一応ないこともないけど)ので、実際どの程度の分量なのかよくわからなかった。かかった時間で言えば相当なものだが、チマチマクリックしたりエフェクトを待ったりしながら読んでいくので、ふつうの小説に比べると文章を読む速度が遅くなっていたと思われるから、時間で計るのも正確ではない。
 ところがこのたび同作のテキスト部分をテキストファイルとして抜き出すことに成功したので、文字数や行数を正確に数えることが可能になった。その結果は次の通りである。いずれも本文部分だけでTIPSやお疲れさま会部分は含んでいない。空行やNScripterのスクリプト部分も除外してある。1ページの文字数はあるライトノベルの文庫本の値、42文字×16行で計算した。文字数はUnicodeの文字数である。

  1. 鬼隠し編 227857字 9047行 566ページ
  2. 綿流し編 314013字 11764行 736ページ
  3. 祟殺し編 324306字 12222行 764ページ
  4. 暇潰し編 133483字 4931行 309ページ
  5. 目明し編 316695字 11885行 743ページ
  6. 罪滅し編 343937字 12631行 790ページ
  7. 皆殺し編 406577字 14513行 908ページ
  8. 祭囃し編 (不明)
  9. 賽殺し編 91942字 3360行 211ページ

 祭囃し編は、カケラ集めがある関係でうまく抽出できなかった。
 大体文庫本1冊は300~400ページ前後が多いため、各編は概ね文庫本上下二巻程度の分量、ただし真相が明かされる皆殺し編は上中下3巻相当、暇潰し編と賽殺し編は1冊相当程度という結果になった。祭囃し編も2冊程度と仮定すると、なんと全17巻の大長編ということになる。実はこの作品にはノベライゼーションも出ていて、それがまさに17巻構成である。
 同人ゲームとしてはこれだけの字数の文章を書いたというだけでも大したものである。完成させるためにはさらにプログラミングも必要なのだから、片手間で作れる作業量ではない。

『レベッカ』(1940)

 dTVにて鑑賞。

  • ヒッチコックが渡米後に撮った第一作。ヒッチコック作品唯一のアカデミー作品賞受賞作。ちなみに有名な話だが、ヒッチコックは監督賞は一度も取っていない。
  • dTVで見られるヒッチコック作品ということで(よそでも見られる著作権切れ作品が中心なので、ヒッチコック作品目当てでdTVに加入するのはお勧めしない)、何の気なしに鑑賞してみてびっくり。こりゃまず間違いなく『うみねこのなく頃に』の元ネタの一つだ。なにしろ洋館だの壁に掛けられた肖像画だのベアトリーチェ(英語映画なので劇中での発音は「ベアトリス」)だの、見覚えのあるモチーフがゾロゾロ出てくるのもそうだが、なんといっても「愛情のもつれの末に使用人が洋館に火を放って自殺する」という結末が『うみねこ』そっくりである。『うみねこ』でヤスが島を爆破した動機は十分に描かれず、世間でもそれが度々批判されていたが、この『レベッカ』を見てほんの少し理解に近づいたような気がする。
  • この作品そのものの出来はあまりよくないというか、ミステリーでもサスペンスでもないので、ヒッチコックらしい作品を期待してみると肩すかしを食わされる。ただ、『めまい』あたりの原型のような話でもあり、そういう意味ではヒッチコックらしさがないとも言い切れない。ともかく、話のはじめの方ではっきりとしたテーマ・問題が提示され、それについてストーリーが進んでいくという構成の話ではない。いったい何に興味を持てばいいのかよくわからないままに話が進む。その意味で少なくとも筆者好みのシナリオではない。

50点/100点満点

Higurashi When They Cry Hou

 何気なくSteamを眺めていたら、『ひぐらしのなく頃に』の英語版新訳版のリリースが始まっているのを発見した。とりあえず第一話鬼隠し編がこの5月にリリースされたばかりのようだ。
 文章を日本語と英語の両方で表示させられるほか、絵もオリジナル版と新しいバージョンとを切り替えられるらしい。Steamの画面で見る限りでは、新しい絵は、なんというか女子が髪の色を除いて全員同じ顔に見えないでもない。でもオリジナル版も五十歩百歩か。
 1本538円とのことなので、オリジナルの『ひぐらしのなく頃に奉』が8話+おまけで3480円なのに比べると日本人にとってはちょっと割高である。日本語版なら第一話は無料の体験版があるわけだし。ただ、Mac OS版とLinux版は今回のSteam版にしかない。

 この作品、以前にも品質はよくないながら旧英語版が出ていて、そのおかげで英語圏のゲームデザイナーの間などでも意外に知名度はあるらしいのだが、それにしてもオリジナルから10年前後も経っているのに随分引っ張るもんだとは思う。
 『うみねこ』では一杯喰わされたが、それでも『ひぐらし』がよくできていることに変わりはない。

『野生の証明』(1978)


 BS-TBSにて鑑賞。ひょっとすると多少カットされてるかも。

  • 福島の寒村で一人の娘を除いて村人全員が惨殺される事件が発生、真相やいかに、という森村誠一の推理小説の映画化。高倉健主演。原作小説はおそらく『ひぐらしのなく頃に』の元ネタの一つで(ネット上では一部で以前から指摘されている)、同作の終盤の展開に強く影響を与えたと見られる。しかし、この映画化作品の方は終盤がマトモな構成になっておらず、中盤まであれこれ複雑な事情を披露していたのにそれをすべてブン投げてアクションシーンに突入し、真相があまりはっきりしないまま終わってしまう。
  • とはいうものの、飛ぶ鳥落とす勢いだった角川映画の第三作目ということで、日本映画としてはカネのかかり具合に目を見張るものがある。高倉健をはじめとする俳優陣もリッチだし、薬師丸ひろ子も可愛いしで、それなりに見ごたえはある作品。大野雄二の音楽もいい。

『うみねこのなく頃に』(PCゲーム・2007~2010)

 一度は投げ出したが、それでは文句も言えないと考え直し、一応クリアした。

 とにかく、何が何だかさっぱりわからない話であった。事件の真相は考察サイトを見なければわからなかったし、それ以上に、一体この作品で作者が結局何がしたかったのかついぞ理解できないままであった。しかし敢えて言えば、この作品は、少なくとも部分的には、読者と作者との戦いの記録であると言うことができるだろう。
 おそらくこの作品の当初のコンセプトは、作者の竜騎士07氏が、『ひぐらしのなく頃に』でこれはミステリーではないと批判されたのをなんとか跳ね返すために、今度こそ文句なしの本格推理に挑戦する、というようなものだったろうと思う。そのために凝りに凝ったトリックを大量に用意し、満を持してepisode 1を送り出したはずである。だが、一度でも「信頼できない語り手」に手を染めてしまった作者の書く地の文は信用できないということで、不幸にも読者から推理物としては相手にされなかったのではないか。そしてそこからこの作者の迷走が始まったのではないかと思われる。この『うみねこ』から何かを読み取るとすれば、推理作家は絶対に地の文にウソを書いてはならないという教訓であろうか。ちなみに、この話の元になったクリスティの『そして誰もいなくなった』は叙述トリックの名作だが、地の文でウソは書いていないから、「信頼できない語り手」を用いた作品ではない。
 もう一つ教訓を付け加えるなら、読者は楽しませる相手であって競争相手ではないということだろうか。当ブログの筆者は学生時代TRPGのゲームマスターをやっていたことがあり、語り手の立場であるにもかかわらずプレイヤーと競り合いたくなる気持ちはわからないでもないが、やはりそうすることは間違いである。語り手が権力を振り回せば無理やりプレイヤーに勝つことはもちろんできるが、それではプレイヤーにとっていいシナリオにならない。結局のところ、作者は最後には読者に負けてあげる立場でなければならぬ。しかし推理小説の分野ではどうしても読者を出し抜くという要素が強いために、ここのところを誤りがちである。
 竜騎士07氏の語りの実力は『ひぐらし』の頃からいささかも衰えていない。しかし正直言って、楽しむために読み始めたつもりなのに、こんなややこしく不愉快でわけのわからない話を延々8話も読みたくなかった。その意味で、この作品に対する世間の悪評には一定の根拠があると言わねばならぬ。竜騎士07氏が読者を敵視し、楽しませる姿勢を放棄し続けるなら、筆者としては今後距離を置くしかない。

-50点/100点満点
単にプレイする価値のない駄作であれば0点とするところだが、この作品には読者に対する敵意と悪意が渦巻いているように思われ、プレイすることが却って有害と考えられることから、マイナス得点とさせて頂いた。

『うみねこのなく頃に』episode 3

 引き続きプレイ。

 ストーリーの基本構成はepisode 1~2と同じ。ただし、このループでの重要な新展開として、絵羽が黄金を探しだすことに成功して魔女の座を引き継ぎ、事件からの唯一の生還者となったこと(てっきり一人でも黄金を探し出せば連続殺人はそこで中止されるのかと思っていたが、そうはならなかった)、赤文字で「島内に親族及び使用人の都合18人以外はいない」こと及び「物語の終盤の殺人で、既に死亡したとされていた人々は確かに死んでおり、かつ生存者の中に犯人がいないにも関わらず、当該他殺は魔女又は人間によって行われた」ことが明らかにされたこと、そして今まで親族会議の欠席者として登場しなかった唯一の親族、縁寿が今回の結末でついに登場して新主人公となり、ベルンカステルによってベアトリーチェに対抗する魔女(!)とされたことなどがある。
 上述の赤文字の内容は、それが真実なら人間犯人説からは矛盾しているとしか考えられない。こうなると人間説を維持するには語り手の問題しか残らない。いま思いつく説は、そもそもメタ世界も含めた包括的な語り手がいて、彼・彼女が犯人なので赤文字部分も含めて事実をゆがめて伝えているといったところか。メタ世界の出来事も含めて全部読者に報告できそうな立場にいるのは、現実世界の人間には今のところ戦人しかいない。もともと戦人は3つのループの中で終盤まで共通して生き残っている唯一の人物で、怪しいと言えば怪しいのである。今回戦人犯人説は赤文字ではっきり否定されたが、赤文字自体戦人が報告しているのならそれに意味はない。メタ世界の戦いは戦人の創作なのか。戦人を犯人として告発するためというのが今回今頃になって縁寿が登場した理由なのかも知れぬ。そうすると第4話からは語り手が変更されるということなのか。
 戦人が犯人でないにしても、今一つ二人とも何をやりたいのか、どういうルールなのか、どうにもよくわからなかったメタ世界の推理合戦が、縁寿の登場で仕切りなおしてくれるのなら、それはよかったと思う。